2007年09月25日

ブログを移転しました。

長らく更新しておらず倉庫状態ですが、このブログと、
普通日記(http://futsuunikki.seesaa.net/)をまとめて、
自分のドメイン下にアーカイブすることにしました。

URLはこちらです。
ChanM屋思索庫 http://thoughts.chanm.com/

これから更新するか分からないのですが(他のブログと被りだしているので・・)、
こちらにいつまでもおかせてもらってるのもあれなので、
とりあえず移転だけしておきます。

でも更新したいなあ。

よろしくお願いします。
posted by chanm at 18:38| Comment(48) | TrackBack(0) | 人間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年04月19日

生きる意味(2)

生きる前に意味はない、
と思う心は変わらないけれど、
最近考えてしまうことがある。

人は「生きる意味」という時、
生きていてもいい、という、そもそもの生まれた理由を探しているんだろうか。
それとも、自分が何のために生きるか、それを探しているんだろうか。

出来れば、後者であってほしい、と思う。
前者は、多分、永遠に見つからない。
だって、だから、ないんだもの。

最悪な今、最高の今、
それは何かの結果に見えるかも知れない。
しかし今は同時に、未来の何かの原因であり、過程である。

原因や過程が変われば、未来は変わる。

生きる意味、 どこかにきっとある運命の赤い糸なんかを、
見つけるんじゃなくて、探すんじゃなくて、

決めちゃえ、好きなのに。
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2003年11月12日

生きる意味

生きる意味あるの、と人はいう。
これやって何の役に立つの、と人はいう。

何度も言うように、問いが、逆である。

まず生きなきゃ、意味は作られないし、
まず知って、さあそれをどう役に立てるか、それこそが人生だ。

だいたい
生きる前に意味があって、その通りにしか生きることができないのだとしたら、
自分の今やっていることが、何かに利用される為だけに価値があるとしたら、
むなしいじゃないか。

それでも人は、
先に理由を求め、先に結果を求め、
迷い、迷うだけならまだしも、死んだり、殺したり、殺されたり、
とても悲しい。


先に
吐かなきゃ、息は吸えないように。

先に
やらなきゃ、やる気は出ないし
愛さなきゃ、愛されないし
与えなきゃ、得られないし
許さなきゃ、解放されないし


生きなきゃ、意味なんてない。


何故そんな自然なことに、人間だけが気付かずに、
逆の問いをしつづけるんだろう、か。
posted by chanm at 18:41| Comment(6) | TrackBack(0) | 意味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2003年02月21日

不幸

その人の不幸というものの最大の原因は
無知だと思っている。

知らぬが故に行い、知らぬが故に行わず

自らの 積み重なる 明日を 導く 不幸へと。

大抵の無知は、罪だ。
知ろうとすれば、そこにあったはずの情報を
拒んだ
その怠惰という

そしてそれは自分が贖う
不幸に甘んずることで

今頃になってやっと自己責任という言葉が顕れた
それまでは人が与えてくれる情報だけで生きて来られた
聞いてないと逆ギレすることができた
この国の不幸は自業自得にしても

その無知の原因が
貧困にある国もある。

貧困は知を拒む
人に知識を得る余裕を与えない
そして知識がない限り
貧困から抜け出せない
悪循環。

ところで、

喧嘩するぞと何ヶ月も大々的に
考えてからさあ始めますと
いって喧嘩する人間もいなければ
クラスの価値観に従わない子を
力ずくで分からせてもいいか
学級会に諮る委員長もいない
例えいたとしても
それはいじめといってね、
それは彼には悪いところもあるかもしれないけどね、
そういう短絡的な解決を一度してしまったら
このクラスとして取り返しがつかないんだよと
先生が諭して
さあ今日のゆとりの時間はこの問題について
じっくり考えましょう
なんて話になる。
ていうかなってくれ。


アメリカがイラクを攻撃するぞといって、
日本では
毎日報道されているけど
当のイラクは何を考えているのだろう
何を知っているだろう
誰までが。

これだけの宣伝期間に

知る者は逃げ
富む者は準備をし

フセインは守るだろうか
残った、無知や、貧困、の 人々を

 不幸から。
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2002年05月08日

殺されるという行為

殺されるということに
原因というのは、あるのだろうか。

死ぬことには原因が、あるのだけれど。

殺すことに理由は、あるのだけれど。


私は、アメリカのアクション映画があまり好きじゃなかった。
主人公の二人はどんなことがあっても生き延びるのだけれど、
その過程で友人やら通行人やらが
理由もなくどんどんと殺されて、そんなことがあるかと思った。

日本映画は違った。殺される人には理由があった。
仏教の影響なのか知らないけれど、
人が一人殺されるということに
必ず因果が用意されていた。
不条理に人が殺されまくって、でも最後はハッピーエンド
なんてことはなかった。
だから好きだと思っていた。

私はそうやって、殺されることには必ず
時には目には見えないことであっても理由があると思っていた。

でも最近、突然、殺されたりする人がいる。
「なんであの子がこんな目に」
と泣く両親などを見ると
いわれなく殺されたということに
とてもとても腹が立つ。
理由がないから、怒りのおさまりどころが見つからないのだ。

騙した、奪った、そんなことの
復讐として殺されるならまだ、
どうにか納得する拠り所がありそうなのだけれど。

きっとメディアもそうなのだろう。
誰かがいわずにいられなくなるんだろう。

犯人を刺激した。
むかつかせた。
挑発した。
隙があった。

何か、他でもないその人が、
殺される理由があったと、いいたくなるんだろう。


最近、でもないか昔からあるいじめのように
怒ったりむかついたりするのは
怒られたりむかつかれたりする人に
その原因があるという。
怒る種、むかつく種がその人にあるから、
自分は怒ったり、むかついたりするのだという。
そんな気持ちで、時には世論を味方に付けて
人は毎日平気で、むかついたり怒ったりしてる。


そんなことの延長で人は
殺される原因を持っているのだろうか。
それが芽吹いて
人が殺されるのだろうか。
その人が殺されるということは、
その人の結果なのだろうか。

だから時にみんな、被害者に冷たいのだろうか。


今なら思う。
アメリカのアクション映画でたくさん人を殺した犯人は、
必ず報いを受ける。
警察も迷わず犯人を殺す。
それは彼が「殺した」からだ。

死は原因であり、始まりなのである。
人が死ぬという始まりに対して、
仕返しという結末が用意されるのだ。

日本なら、犯人は生き残れる。情けを掛けられる。
後悔する。更生する。
そして
人が死んだということに対する結果が、
「人を殺した」ということの報いが、宙に浮く。

宙に浮いた物が、
被害者に返る。
でも、被害者の人生は死んだところで終わっている。
被害者を見る私達には
死が「結果」としか見えない。

だから原因を探す。
被害者の中に。
その人が「殺された」という原因を。

でもそれが正しいのだろうか。

わからない。
ただ、殺すという行為はあっても、
殺されるという行為は

この世の中に、
存在しないのだ。
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2002年01月11日

性格選択の自由

恐ろしいのは
その性格を選んでいる本当の何かが
自分のもう一つ内側に
存在しているということ。

ここで、
怒っても、悲しんでもいい。
ここで同情してもいいし、けなしてもい。
どちらの表現方法を採るか、ではなく
どちらの表現方法を採るような性格を選ぶか、である。

できるだけ、系統立てて。
つじつまが合うように。

性格には流行廃りがあるから、
みんな、きをつけて、気を配って、
メンテナンスして、アップデートしながら生きている。

電車で、集団で、騒ぐ、高校生。
いまだ流行の性格。
性格に問題があるのではない。
あれは単に種類。

困っている人がいるから手をさしのべよう
偽善者に見えるからやめよう
どちらでも、構わない。
それは単に種類。

ここは怒鳴って当然
まあたいしたことじゃない
どちらの気分を選んでもいい。
それは単に種類。

不機嫌そう
楽しそう
どちらの表情で過ごしてもいい。
それも一つの種類。

殺してもいい、
許してもいい。
そのこと自体に何か意味があるのではない。

口調、表情、行動、思考、
全てが無数に種類を持って
人間界を覆い尽くしている。
「性格」という名の無限の組み合わせに
自分が取り込まれるのを待ちながら。

だからたまにふっと我にかえって
恐ろしくなる。
今このとき、この性格を、平気で選択している
その人間の
本性が
存在しているのだ。
posted by chanm at 18:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年11月26日

非論理ときれいごと

テロから1ヶ月からさらに1ヶ月強。

アメリカが報復を仕掛けたとき
日本が協力の姿勢をとったとき
「戦争反対」はなんと
・きれいごと・非常識・
ということになった。
だから戦争。

というものすごい論理の飛躍を私の国の総理大臣がやってのけた。

そして思想に向けて銃をぶっ放すという
おとぎ話でも実現しないような戦争が始まった。

あの建物を、あの組織を、あの家族を破壊すれば
テロが消滅する。
ところでそれは「きれいごと」よりどれだけ論理的だというのだろうか?

戦争賛成であれ、戦争反対であれどっちも理論立てればかなりの説得力があると思う。
そしてもしかしたらどちらも非の打ち所のない論理が完成し得るかもしれない。
そういう論理は世間では「正しい」と呼ぶから考えたくはないが、両方正しいということがあるかもしれない。

日常生活ではよくある。
どちらも正しいことが。
就職?留学?
延命?安楽死?
変える?続ける?
それぞれにそれぞれの比べられない理由がある場合私達は結局好きな方を選んでいる。
より自分の価値置く方を。

アメリカには結論を選ぶ余裕があった。
そして好きな方を選んだ。
それだけのこと。

靖国神社を参拝したときあなたは想像だにしなかっただろう
自らが戦犯になる日が
将来あるかもしれないなんて。

悪いけど小泉首相、
国民にこそショー・ザ・フラッグ。
私達は次世代に
何をもって尊しと言えばよいのか。
posted by chanm at 18:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年10月13日

Just because

9月11日の米同時多発テロ事件から1ヶ月。
悪月記になっている・・・。

都合のいい(悪い?)時だけメディアは公平で
米アフガン攻撃に対して
反対とも賛成とも言わないけれど
おかげで私も反対とも賛成とも言えない。

私も都合のいい(悪い?)時だけメディアのせいにして
申し訳ないがところで、
こういう時どっちの態度を取った方が
私はより殺されないだろうか。
後々非難されないだろうか。
判断つきかねる今日この頃である。

テロには文句なく反対と言って問題なさそうだ。
じゃあ、報復は?
反対と言ったらただの平和ボケの考えなしか?
あれはOKと言える理由が
実はたくさんあるのか?
うかつに非難してはまずいか?
日本の未来にも影響あるか?
じゃあお前ならどうするんだと、矢面に立たされるか?

遠い遠い中東の文化−価値観−は
私とはえらい違うんだろうなとは思って生きてきたが
今回は同じくらい
アメリカも遠い。

せめてアメリカが
民主主義を取り戻すというより、
正義を勝ち取るというより、
テロの撲滅云々というより、
ただアメリカの勝利の為に、戦っているだけなんだと
言ってくれたら安心して反対できるのに。
posted by chanm at 18:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年09月12日

幻想の前提

NYが大変なことになりました。

ちいさいころ私しゃアメリカ映画で
通りがかりの人とか、理由がなくても人が死ぬ
という設定がありうることに
ものすごいカルチャーショックを受けた記憶がありますが、
死ぬ理由がなかっただけでなく
他人の理由によってこれだけの人が殺されるなんて
なんだかもう頭がついていきませんです。
日本政府も頭がついていけるのだろうか・・(失礼)

今更ながら自分の平和ボケを痛感します。
あるのが当たり前の空気のことなんてすっかり考えないように
他国情勢だ世界経済だ国勢だとか、
日頃自分の存在を何重にも守ってくれている機構への興味を欠いているので、
その何かが崩れたときに自分が動けるその指針なんて
一つもないんですよね。
状況把握だけでも頭がついていかない。

死ぬことに理由がなければいやだなんて
おごりでした。
そもそも生きてることが当然じゃないってこと
忘れるくらい麻痺してただけだった。
posted by chanm at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年09月07日

想像という道標

100%当たる占い師と50%当たる占い師、どちらが盛るか
という例えがあるけれど、
そう答えは50%当たるほう。
100%の確率で不幸を予測されちゃ人間かなわないわけです。
ま、50%の確率っていうのもかなり嫌ですけど。

100%当たる天気予報が将来出来るという
可能性があるかどうか知らないですけど、
子供がてるてる坊主をつるす余地もなくなっちゃう天気予報は
なんだか悲しかったりもします。

ところで女の子の占い好きはばかにされることもあるけれど
種明かしをしますと
別に当たるから見ているわけでもない。

占いって明日を先に信じるための
素晴らしい道具なんですね。
いいこと書いてあったらそこで明日のいいことを思い浮かべる。
悪いこと書いてあったらそこで明日気を付けることを思い浮かべる。
一日のうちでほんの30秒、明日のイメージトレーニング。
スポーツでも、音楽でも、
イメージトレーニングって、ものすごく効果ある。
こういうものを利用する女の子っていうのは
本能的に利口なんでしょうね。

信じるのが先か現実が先か。
難しい問題です。
どっちもありだしどっちでもいいんだとは思います。

頭のいい、論理的な人ほど
意味や根拠のあるものしか相手にしなかったりすることがありますが。
論理、理屈、モノ。
彼らの脳はいつも既に出来上がったものを後から追いかけているだけ。
そして何も変わらない。

明日という現実が来るより先に明日を信じてみる。
そしてその信じたことが現実になる余地があるという
この幸せ。
じゃなきゃ未来は創れない。

不景気、株価低迷、失業、etc。
その現実にあとからついて行くだけの
私達の精神であるはずがない。

imagine!
posted by chanm at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 価値 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年08月30日

棚に上がる旦那

専業主婦、専業主婦って
うるさいんだよーこの専業会社員。
お互い様様やわあ。
posted by chanm at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年08月07日

現実、それは自分の心と目と、その2重のゆがみのその先にある

自分の見方一つで
世界なんてものは変わるが
例えば何かを−幸せと思うか−辛いと思うか−
それだけに
自分が変わるというのが
世界で一番困難なことなんだろう。
例えば構造改革、なんかよりも。

実際私なんかも辛いものを辛くない、嫌なものを嫌じゃない、ないものをなくない、
といって
(誤魔化して?暗示をかけて?その気になって?信じて?)
切り抜けるのは嫌いだ。
自分を貫き通しても自分が満足出来る場を確保することが
勝ち、もしくは成功というのであって
自分が変わって周りに満足できるようになった
では元も子もないじゃないか。

でもまあ、同時に思う。
本人にとってはよけいなお世話だが、
そうして獲得された「自己満足」の
端から見てなんとみすぼらしく哀れなことか。

ところで素直さというのものは
たいていの人は後から獲得するものではないだろうか。
普通誰しもの心の殻−我−を取り払うとそこに出てくるような気がするが、
ない、多分、そこには。
生まれたままの素直さはもちろん本当は無知というのであって、
普通それがだんだんと我にすり替わる。
人間が生きていくための必須事項である、
「自我の確立」という作業のためだ。
その後、もう一度人は改めて、素直さを学習する。
そんなプログラムされている気がする。

なぜなら素直さは
時に自分への否定を受け入れてしまうことによって
自我を危険にさらすという
コミュニケーションの中ではかなり高度なテクニックであるから。

人が後天的に学習するものはまだある。
やさしさ、気遣い、正直さ、
どれも一つ実行するたびに、自分が減る。
奉仕、他人への称賛、お釣りを多く貰ったら正直に返す。
いやー、消耗する(笑)。
なのにそれを実行する、とうことを人は後から学習する。
学習せずしてなぜ実行できるというのか!
素ではあんまりやらん、と思う。人間、こんなこと。

別に性悪説を説くわけでもなし
私がそういう人間だからそう思うんだけでしょ、と思われてもいーんだけど。

素直さ、優しさ、そういったものは常に、
自分が変わってしまう可能性を秘めていて、いわば
「変わる」自分を受容する土台となっている。
変わる自分を受容する。
ってなんて恐怖!
弱い人間には、実行できないことだ。
理性のある人間にしか、実行できないことだ。

例えばとても小さなこと。
高い服を身につけるのと
明日の自分の笑顔を2つ増やすこと
どちらが難しいか。
どちらが本当に世界を変えるか。

金銭的にシビアな世の中で、私だって危ない。
小泉構造改革のいう「痛み」にはビクビクである。
ただ、金銭的なコスト、
それは私達の致命傷にならないような気がする。

私達にとって本当の痛み、それは精神的なコストだろう。
不景気といいながら衣食足りてしまった私達が
本当に払わなければいけないコスト。
自分が変わる。
例えばエコとか、平和とかにはね。
環境破壊も、戦争も、
自分達が変われないばっかりに、自滅する運命が待っている。

哀れな自己満足の世界を抜け、精神的なコストを払う。
それだけの勇気が、もちろん私にもある気がしない。
ただ、それこそが人間が高等生物であることを証明できる真の理性というもので
それに対する審判が下される日がいつか
来てしまうんだろうなとは
なんとなく思って悲しいのである。
posted by chanm at 19:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年06月15日

理屈

理屈は虚構かもしれないけれど
理屈が通じる世の中が好きだ。

理屈って大したもんじゃないけど
それに従っている私たちが好きだ。

時に、理屈のために、
周りの、為に、
自分の、大切な、
感情を諦めるそういうことができる私たちを誇りに思う。

理屈じゃないことってたくさんあるけど、
そんなときに
理屈と自分自身との間で
悩んでしまう私たちが
愛おしいと思う。

世の中にくだらなかったり、どうしようもないような理屈が
やまほどあるけれど
それをなんとかしてかいくぐって
どうにかして居心地の良い
また新しい理屈を作り出そうとするそういう私たちのたくましさが
いけてるんじゃないかと思う。

理屈は、
放棄しちゃいけない。
正しいからじゃない。
理屈の理屈の理屈の理屈にはきっと、
根拠なんてない。

理屈は人が、他の人と交わっていこうと、
願って生まれたものだと思う。
みんながいいように、みんなと自分が一緒に幸せになれるように
みんなが少しずつ自分を引いてそこに、
理という道が、出来たはずなんだ。

理屈は虚構かも知れない。

でもたくさんの友達が殺された、
大阪あの子供たちは
まだ誰かに、
聞くだろうか、
どうして人を殺しちゃいけないの、
って、
聞くだろうか。

理屈を放棄するっていうことが
私たちにとって
どんなに悲しいことなのか
本当は私たちは
みんな知っているはずなのに。
posted by chanm at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 意味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年06月05日

社会という非現実

ずっと、
「社会に出たら」
そこに
「現実」
があると思っていた。

実際
自分を「食わしていく」というそのことに
真剣に対峙している(−資本主義なら、金を稼ぐ−)
社会という場はたしかに
私という個人にとって、
紛れもない「現実」を実感する所だった。

社会は、回っている。
生活の糧を得るために、生活の糧を生み出すために。
そして個人がまた、その中で、回っている。
止まれない。
それは死を意味する。

毎日回っている。
明日があるから。
明日が来るから。
回らなければいけない。
それが「現実」なのだ、と。

そうやって毎日回りながら、社会は置き去りにしていく。

環境や介護や育児や人の素晴らしい日常という
「現実」を。

社会を責めることはできない。
そうしなければ、
回っていけないのだ。死んでしまう。

道を進んでいて
間違っていることに気付いても逆方向に取って返すには、
一瞬でも、完璧に止まらなければいけない。
ちょっとした方向転換でも、
一回失速する必要がある。
何でもいいからこのまま進み、脇道を入って
あわよくばどこかでまた復帰できればいいと考える。
それなら「ローコスト」だ。
とりあえず今は、進んでしまえ。
そうすれば、止まらなくて、死ななくて、済む。

そうやって、

社会は、
現実では、
ない。

子供も、年寄りも、障害者も、飢えも、家庭も、地球も、文化ですら、
そこにはないのに、
現実であるはずがない。


そして
資本主義の中で
営利を追求しなくても生きていけるという
赦しにも似た特権を保持し
ほんとうの「現実」を顧みる余裕と使命を持った
政府が
なにも啓蒙できないままに

社会は、
現実は甘くないという
夢を見続けて今日も回っている。
posted by chanm at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 意味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年04月25日

イライラの資格

イライラするには自分の市場価値を鑑みる必要がある。
前文句言った、キレるほどじゃないけど
イライラするのだって結構おこがましい行為である。
イライラしている人の近くにいる人は
(とくに自分に無関係の場合)
不快でしょうがないわけだから。

(人を笑わせるイライラが出来れば構わないけれど。。。)

他人にとっては不快でしかない、そのイライラという行為
ごく親しい一部の人間に対して以外だと
人にぶつけていいか、
それが許されるか、
検証しないといけない。

他人を一度でも不快にさせるというのは結構なリスクだが
そのリスクを負ってまで
吐き出したいイライラか
(そういうことはもちろんある)
機嫌が悪いなどという行為が許される価値が
今この場の自分にあるかどうか。

社会では市場価値が高くなるにつれてその人のイライラは
それをとがめる人がいなくなる。
その人はイライラを抑制しなくて良くなる。
人に気を使って、
自分の感情をコントロールしなくてもよくなる。
人に気を使わずに
機嫌が悪くなることが出来るようになる。

だからだろうか、
偉い人には子供が多い。

衣食足りて勝ち得た
礼節という高貴な方法。
放棄できる立場にあってなおそれを保つ。
そういうのを美しい徳という。
最高の贅沢ですが、それを知る人は例えばこの国では・・・
posted by chanm at 19:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年03月26日

気が利く。気が利かないことに。

気が利く人っていいんだってねー。
でも気を使う人は苦手。
だって気が利く人はいつだって勝手に気が利くけど
気を使う人は自分に対しても他人(まあ、下の人とか)に
それを強要するんだもの。

自分は気も利かないし使えないしで
あまり言う資格がないのだけれど。

気が利くのはボランティア活動と一緒だと思うんだけどなあ、
やるのはその人の勝手やらないからといって白い目で見られるものではない。

気が利くのは特に日本では
とてもよい習慣や伝統だからどんな社会でも新人さんは、
ある程度身につけた方が
その先うまくいくからまず「気を使って」、
だんだん「気が利く」になるように、
教えたり、教えられたりするのはとても重要だと思うし、
気が利く人間っていうのは
どんどんいたほうがいいのだけれど。

ただ、あくまで勝手に、気が利くからスマートで、粋なのであって。
それを暗に求めて平然としている文化というのは。

ありなのか?
あ、あるのか。

まあ、明言して頼んでもいないことを、
気が利かない、とつむじ曲げる年寄りとか、
偉くなるといるみたいだけど
そういうのだけは、器が知れちゃうからやめた方がいいと思うよ・・続きを読む
posted by chanm at 19:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年03月14日

メタマニュアル

マニュアルは大歓迎だ!
マニュアル通りの人間だ私は!
ちょっと斜め読みだけど!

ただ、そろそろマニュアル市場が飽和して
「マニュアル通りに生きない」
メタマニュアル全盛の時代に突入しつつある。
ような気がする。

マニュアル通りにおもしろかったりマニュアル通りに先進的だったりマニュアル通り仕事のできっぷりだったりマニュアル通りの反体制ぐあいだったり、
マニュアル通りに新感覚だったり、
マニュアル通り革命を起こしたり、

・・つまりは
マニュアル通りにマニュアルに捕らわれず、
「マニュアル通りに新しい」。
勝手に名付けてメタマニュアル。

マニュアル通りの人は融通が利かないけれど
メタマニュアル通りの人だって利かない。
しかもこっちは自分がマニュアル通りだってことを意識してないから余計たちが悪い

昔は、「マニュアル通り」はちゃんと
社会の中で区別できた。
社会は平凡だけど流動的で
何がマニュアル通りかきちんと区別が付いていたから「マニュアルに捕らわれない」は
本当の新しさや、自由を意味していた。
今は多分
社会自体がマニュアル通りに進んでいくような
融通の利かない
新しさや、自由がある。
こっちの方が
並のマニュアルより、手強くて、窮屈で、生き辛い。

昔いたインチキなんていうのはきっと愛すべき、
マニュアル通りの物分かりのいい人とか
マニュアル通りの教養人とか
マニュアル通りのクラシック聴きくらいなもので
もっと平和だったはずなんだ・・。
posted by chanm at 19:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 人間 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年02月24日

名前という記号の軽さ

叶姉妹の是非ってばどうでもいいのだけれど
わりとおもしろい。
歌とか演技とか踊りとか、芸をしないから一般人で、
なんでテレビにでてるの、ということらしい。

こういうことを議論してしまうっていうのがね・・。

私は肩書きがなくて、でも画面の中で絶対的な笑みを
浮かべている彼女たちの潔さが好きだし、うらやましい。
あー、デヴィ夫人は、
名前自体が、肩書きだからなあ(笑)。


温情で、会社からもらってる肩書きをちょっと取ってみたら
市場価値も、存在意義も、主張するのがどれだけ大変か
例えば自己などを顧みてみる。

この議論、みんなどういう結論に持ってくのかしら、、
ともすると知らないうちに自分自身を全否定しまう可能性をはらんでる
「どうでもいいような」「他人事」を・・・・。
posted by chanm at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年02月03日

ヒーローは予防する。

ヒーローはでかい仕事をする。
危機に陥った地球を救ったりとか、
暴漢に襲われた女性を救ったりとか、
不治の病を治したりとか、
腐敗した政権にクーデターをおこしたりとかする。

目に見えて劇的に物事を好転させるから、
そいつはヒーローになる。

これ以上ないってくらいどうしようもなくなって
やっとみんながそれに気付く。
もうどうしようもない、だめだーー。
そこに登場するのが
ヒーローだ。
ヒーローは、だから目立つ。

日本の外の状況、
日本の中の状況。
本当に下まで落ちなきゃ、
本当に自分の身に降りかかって来なきゃ気付きゃしないに違いないのだこの平和さ。
気付かないことは罪じゃない。
私たち何も悪いことしてないの、なんでこんな目に遭うの?
そうわめくことも罪じゃない。
大丈夫、そこにヒーローは必ず現れる。

それにくらべて、
食料自給率をこれ以上減らさないために
割高でも日本の農作物を買ってもらうように努力したりとか、
資本主義が本当に人を幸せにするのか本気で考えたりとか、
未来の子供と環境を気にして生きたりとか、
借金のない国にしたりとか。

予防は、目立たない。
目先のことしか見えない文化には、
予防の大切さは分からない。
だからヒーロー(救世主)が出てくるのを望むしかないような、
そういう状況にならないように
日々努力するひとこそがほんとうは
この世の中を毎日救い続けているのだということを、

そしてそういう人こそが真のヒーローと
讃える文化でなければ
この生命体が滅びることを、

知らない。
posted by chanm at 19:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2001年02月01日

人間は意味を創造する。

意味が大切だという。
意味は理由である。
意味のある仕事、意味のある勉強、意味のある旅、意味のある休息。
意味は価値である。
意味のある作品、意味のある品物、意味のある企画、意味のある失敗。
意味は理由になる。
意味のない仕事、意味のない勉強、意味のない旅、意味のない休息、だから。
意味は価値になる。
意味のない作品、意味のない品物、意味のない企画、意味のない失敗、だし。

意味は必要だという。

理由があるから、価値があるから、
私は行動するのです。

でも
理由があるから、価値があるから、
私が生きているのです?


気がつけば人生の半分をバブル崩壊の言い訳の下に
あやふやにしてきた世代だ。

バブルではないもの−意味のあるもの−をひたすら求めて
もがいてきた時代だ。

意味はアイデンティティだった。
意味があるか、をいつも考えていた。何にでも。
理由がないと、価値がないと、生きていけなかった。
そこに意味がないと
ものすごい孤独と焦燥感に襲われた。
でもそうやっているうちに、
意味を考えるのに疲れた
だから全てを意味がないということにした。
無気力という世代になった。

でも、
私に、そしてあなたにも生きる意味が別にないことを思えば、
そんな私たちが
与えている意味、感じている意味、
何の理由が、何の価値が。

物事を行動に移す前に、
効率面以外で、
意味があるか、ないか考えるのは
意味がない、と。
そういう勇気と覚悟が、たまには、あったら。

意味なんてちゃちくて、
じつは脆くて
わたしが作ってやらなければもうどこにもないんだって気付けたら。
posted by chanm at 19:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 意味 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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